「全ファミ。」ブログ編

ギャラクシアン ~狙い撃つことにこそ意義がある~

居合い撃ちとの出会い
 居合い撃ち。
 敵の至近距離から弾を発射し、一発も外すことなく敵を撃墜する――。
 居合い撃ちは『ギャラクシアン』のプレイ中にひらめいた射撃術のことである。命名者は居合い撃ちの開祖である自分。ネーミングの元ネタは日本刀の抜刀術である居合い斬りだ。鞘から抜刀する様子を見せることなく、一瞬にして敵を斬る。その居合い斬りを弾でやってみようというマニアックプレイである。
 この居合い撃ちをひらめいたのは、何の気なしにゲームボーイ版『ギャラクシアン』を電車内でプレイしていた時。「敵をぎりぎりまで引き付けて撃つのって、何かわからんけど面白い!」ってな具合だったのだ。
 ただ、居合い撃ちにハマりはしたけれど、居合い撃ちがなぜ面白いのかなんて、考えることすらなかった。自分はゲーム制作者じゃないから、ゲームの面白さを分析する必要はない。人に語る必要もなかったから、面白さの理由を突き止めることもなかったわけだ。




たった3機のデモンストレーション
 それから時は流れ、『ギャラクシアン』1面の敵すべてを居合い撃ちで倒さなければならなくなった。当時、ゲームサイドで連載していた「全てはファミコンのために。」のWEB企画として、『ギャラクシアン』居合い撃ちの成功動画をサイトにアップすることになったのだ。
 ゲームボーイ版での居合い撃ちは、正直に言って単なる暇つぶしだった。途中で居合い撃ちに失敗してもそのまま続けていたし、実際のところ敵全滅に成功したこともなかったように思う。
 しかし、今度は動画として最初から最後まで成功したプレイを撮影しなければならないのだ。プレッシャーは大きかった。
 居合い撃ちのコツは敵の動きをつかみ、コントロールすることだ。しかし、それを分かっていてもままならない敵の猛攻、そして、自分の技量のなさ。一撃を外してはやりなおし、敵の体当たりを受けてはリセット。その繰り返しの中で、敵があることをしていることに気がついたのだ。
 それがデモンストレーションである。
 手元にファミコン版『ギャラクシアン』がある人は、とりあえず起動してゲームをスタートしてみよう。ゲームのない人は居合い撃ち動画を見てくれてもいい。
 スタートすると、1機の敵が自機に向かって緩やかな弧を描くように飛来してくる。自機は左右に動かさず、ゲーム開始直後の位置においておく。すると、敵は自機のぎりぎり前を通り過ぎていくのだ。
 そのぎりぎり具合は、まさしく目と鼻の先。まるで計ったかのよう。というよりも、実際に計っているのだ。制作者が、敵の動きをプレイヤーに教えるために。
敵は弧を描くように飛来しますが、無駄な動きをしなくても倒せますよ
 自機をかすめるぎりぎりの飛来は2機続く。その間はレバーを触る必要すらないのだ。ただ単に、目前に飛んでくる敵を居合い撃ちで撃墜していけばよい。だが、飛来する3機目は、ほんの少しだけ横にずれて撃たないと倒すことが出来ない! 開始直後のたった数機の動きだけで、プレイヤーに『ギャラクシアン』の本質を教えてくれるのだ。何と美しく、ムダのないゲームデザインなのだろう。
 そもそも、『ギャラクシアン』は左右に動くのみの自機を操作し、一発ずつの弾で敵を倒すというシンプルなゲームシステムである。凡百のゲームであれば、いきなり敵が襲ってきてそれを撃破するだけの内容になっているだろう。しかし、非凡なる『ギャラクシアン』は、シンプルとしか思えないゲームシステムの中にさえ、デモンストレーションをさりげなく盛り込んでいるのだ。当時のプレイヤーは、意識したにせよしないにせよ、敵の動きを体で覚えたことだろう。私と同じような感動を覚えたプレイヤーもいたかもしれない。そして、その動きやゲームの本質に心を奪われ、プレイを重ねたことだろう。
 『ギャラクシアン』は元々アーケードゲームだから、プレイヤーに次々とお金を入れさせなければならない。それゆえ、ゲーム内容にメリハリをつけ、プレイヤーがどこで死んでもまた遊びたくなるような気持ちにさせる必要があるのだ。そこで、まずは撃墜しやすくわかりやすい動きをする3機を用意したのだろう。私にとっても2機の効果は絶大だった。ファミコンでのプレイであっても何度も繰り返して挑戦したくなったし、かつまた、自機を動かさずに敵を倒せるということに興奮と感動を覚えたのだ。ゲームボーイ版にハマっていたのも、多分デモ飛行をする3機のおかげだろう。
 少し話はずれる。ゲームによっては、ゲーム開始後にテキストによるシステム解説をしてくれるものもある。そのテキストには工夫がなされ、よく練られているものも多い。けれども、私にはゲームの説明を読むということ自体がもう苦痛でたまらないのだ。ゲームくらい自分の好きに遊ばせてくれ。押しつけがましく長ったらしい説明はいらないんだ。わからなきゃわからないで、そのわからなさを楽しむ。たとえシステムがわかりにくくても文句は言わない。だからほっといてくれ。

狙い撃ちするということ
 『ギャラクシアン』の面白さは狙い撃ちにある。
 ……などと書くと、当ページを読んでいるようなコアでディープなゲーマーが、「コイツは何を今さらなことを言ってるんだ。そんなこた189も承知だろ! ちなみに189は『三国志Ⅱ』シナリオ2の開始年な。ちなみに俺は呂布でしかプレイしないぜ」などと私みたいなことを言い出したりするだろうが、それでも書きたいことがある。『ギャラクシアン』は、ゲーム中のあらゆる要素が狙い撃ちをより面白くするために用意され、調整されているのだ。誇張ではなく、本当にあらゆる要素である。それゆえ、アイデアや調整不足のゲームのような、「ここがもっと練りこまれていればいいのに」とか「もっとここを遊ばせてほしい」とか「ここがいらない」とか、そういう不平不満がまるでない。プレイヤーが狙い撃ちに没頭するための仕掛けに充ち満ちているのだ。
 本作の狙い撃ちを狙い撃ちたらしめている要素の1つが点数だ。『ギャラクシアン』は、敵を撃墜した時の敵の状態ごとに点差が設定されている。飛来せずに上空で留まっている敵と飛来してきた敵とでは、飛来してきた敵のほうが高得点なのだ。また、自機が発射可能な弾は一度に1発だけ。弾を外せば上空で留まる敵に当たってしまうこともある。『ギャラクシアン』で高得点を狙うならば、飛来する敵を狙い撃ちするしかないのだ。
 逆に、上空で待機する敵を撃墜するのはとても簡単だ。ゲームをクリアするだけなら、狙いもそこそこにただ弾を撃っていればよい。けれども、それは本当に面白くない。まったくと言っていいほど興奮が得られないのだ。ほとんど動かない敵をただなぎ倒すなんて、つまらないにもほどがある。それゆえ、狙い撃ちの面白さが際立ち、自然と飛来する敵を狙い撃ちするだけになっていくのだ。上空で待機する敵を撃ってしまったら損などと思い始めたら、すっかり『ギャラクシアン』にハマっている証拠である。そうなったらあなたも居合い撃ちを始めよう。
 2つめの要素は、弧を描くように飛ぶ敵の動きそのものである。宇宙からやって来た某侵略者のように横へ横へと動き続けるのではなく、某星の兵士の敵のごとく殺る気まんまんで自機へ向かって一直線に突っ込んでくるわけでもない。デモ飛行で見せたように、1機1機が弧を描くように飛んでくるのだ。この弧が絶妙で、プレイヤーは敵が飛来してくる軌道を予測して「通り道に弾を置いておく」ような芸当ができてしまう。敵を撃つこと自体が芸当、つまりは芸になっているのだ。芸ゆえに成功後にはちょっとした優越感が湧き上がってくる。極めようとする意志も生まれてきてしまう。おそるべき弧の角度。ちょっと角度がついただけで、プレイヤーはすっかり狙い撃ちのとりこにされてしまうのだ。

複数同時飛来
 これまでに書いてきたとおり、『ギャラクシアン』は狙い撃ちすることにゲームを特化させている。狙い撃ちすることが目的であり、同時に手段でもある。ほぼ例外なく、このように目的と手段が高密度で同一化されたゲームは、中毒性が高いか、かなりの良作となっているのだ。私が愛してやまないファミコン版の『ダイハード』もやはり良作だった。敵の弾幕をかいくぐることが目的であり、同時に生き残るための手段になっていたのだ。もっとも、『ギャラクシアン』との弾数比が1対50くらいになっているけれども。
 さておき、『ギャラクシアン』での狙い撃ちへの追求は、デモ飛行を経て複数同時飛来へと進化する。複数同時飛来は阿弥陀如来に語感が似ているがまったく関係なく、単に複数の敵が同時に飛来してくる様を表現した言葉だ。単独で1機が飛来してくる時は単に狙い撃ちをするだけでよかった。しかし、複数の敵が同時に飛来してくるとそうは言っていられなくなる。そこに「複数の敵の軌道を読む」という要素が生まれてくるからだ。ただ、そこは狙い撃ちに特化した『ギャラクシアン』、単に飛来する敵を増やすようなことはしない。従来の敵とほぼ同時に、それとは別の軌道を持つ色違いの敵を飛ばしてくるのだ。4機のデモ飛行によって、最初に飛んでくる敵の軌道はプレイヤーの頭に叩き込まれている。よって、あとは新たに飛来してきた敵の軌道を把握するだけでよいのだ。
 当然、新たなる敵の軌道も弧を描く。従来の弧と新規の弧。この組み合わせにすることによって、デモ飛行でプレイヤーの脳裏に植えつけられた「無駄に動かなくても敵を倒せる」という記憶を残したまま、新たな敵も最小限の動きだけで対応することができるのだ。
 ギミックやシチュエーションを優先したため、もともとの操作が持っていた気持ちよさが制限されるゲームがある。『ギャラクシアン』の気持ちよさはあくまでも狙い撃ちである。見ず知らずの敵に翻弄されたり、対処することのみに振り回されるなんてことは一切ないのだ。

対決! 3機編隊
 狙い撃ちの面白さは、3機編隊との対決で頂点に達する。敵の旗艦と配下の2機からなる3機編隊は、飛来している間に3機を一気に撃墜しないとボーナス点がもらえない。また、軌道がそれまでの敵と異なるため、かなり引きつけてから撃たないと撃墜は困難だ。さらに、3機編隊以外の敵も飛来するから、「別の敵に対応しつつ、1発しか撃てない弾で3機を連続撃墜」という離れ業まで演じなければならない。
 だからこそ、撃墜時には特別な効果音が鳴り、さらにゲーム中での最高得点であるボーナス800点がわざわざ画面上に表示されるのだ。撃墜が困難だからこそ、それが成功した時の快感は比類なきものになるのである。
 ゲーム制作者のインタビューを読むと、ゲームを面白くするためのテクニックとして「抑圧と解放」をセットで用意する話がよく出てくる。この3機編隊と撃墜時の演出は、まさしく抑圧と解放そのもの。撃墜せずにはいられないのだ。
 実は、『ギャラクシアン』にはいくつものの「抑圧と解放」がある。1つは敵の動きそのものだ。飛来してきた敵を撃たずにいる(あるいは撃ち逃す)と、画面下へと消えていき、再び画面上空へと舞い戻る。画面上に存在するすべての敵が大なり小なり抑圧と解放を行っているのだ。
 また、デモ飛行~複数同時飛来~3機編隊~後で述べるラストバトルという流れも、長い目で見れば抑圧だろう。最後の抑圧から解放されると面クリアとなるからだ。
 まさに計算しつくされた抑圧と解放。アーケードゲーム時代、本作が大ヒットしたのはまさしく当然のことだったのだ。

そして、ラストバトルへ
 敵が残り少なくなると、敵飛来時の効果音が変化し、それと同時に敵の軌道も攻撃的なものに変化する。さらに、いったん上空へ舞い戻って停止していた敵が、そのまま間断なく襲いかかってくるのだ。しかも複数同時などといった生やさしいものではなく、生き残った敵すべてが同時に自機へ向かって突撃してくる。ゆるやかで見世物的でどこかしら牧歌的だった自機と敵との戦いが、一気に全面戦争へと突入するのだ。
 この時だけ、『ギャラクシアン』は『ギャラクシアン』ならではの完璧な調整をかなぐり捨て、普通のゲームとしてプレイヤーに勝負を挑んでくる。いわば、「面クリア直前の最終勝負」である。
「ここさえクリアすれば、また次の抑圧と解放が待っている」
 そのように思わせるための演出なのだ。
 かくして当時のプレイヤーたちは、すべてが狙い撃ちに特化した『ギャラクシアン』へとどっぷりとハマりこんでいったはずだ。そして、狙い撃ちの魅力は今も古びることなく、燦然と輝き続けているのである。

んで、居合い撃ちはどうなった?
 居合い撃ちにおいて、このラストバトルはこの上なく難しい箇所だった。敵の軌道が非常に読みにくく、居合い撃ちが極めて困難なのだ。ここで敵を撃ちそこね、あるいは敵に体当りされ、何度やりなおしたことだろう。けれども、最後に居合い撃ちで全滅させた時、私は大きな安堵とともにこうも思った。
「居合い撃ちという、狙い撃ちの極致に挑戦したからこそ、『ギャラクシアン』の世界を深く理解した」のだと。マニアックプレイをしたからこそわかることもあるのだ(そんなのおまえだけだよ)。
 ちなみに、この動画のギャラはなかったような記憶がある。この原稿料で取り戻したことを記載して、文章を終わることにしよう。


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