「全ファミ。」ブログ編

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ひもを使ったボードゲームを作りたい! 出来ればコンシューマゲームがモチーフで!(その一)

ひもを使ったボードゲームをどーしても作りたい! ひもを使ったボードゲームといえばokazu brandさん独占なので、そこに何か新風を巻き起こしたい! いつからか、そんな野望をいだくようになりました(誰か一人しかいないであれば、張り合いたいなぁ、と。そのあたり、青こと『ベースボール』を900本集めた行動原理とあんまり変わってないです)。
やー、大好きなんですよ。氏の「ひも」シリーズ。特に「ひも電(輸送編)」が大変素晴らしく、これぞアナログゲーム! といいたくなるような発想の柔軟さがたまらなく面白いんです。

んで、私のバックボーンはファミコンですから、それをバックボーンにしたひもゲームを作ろうと考えました。私が好きなゲームはわりとシンプルなものが多いんです。一つのアイデアだけでゲームが成り立っているような、そういうものですね。なので、まず、ひもから連想できる動作を書き出してみました。

ひっかける⇔はずす
かこむ⇔とく
つなぐ⇔きる
むすぶ⇔ほどく
しばる⇔ほどく
たらす⇔ひきあげる
あむ
ひっぱる

左側が最初に考えた動作、右側は、それと対になる動作です。対になる動作をくわえたのは、それがないゲームはたいてい味気がないからなんですね。ただ何となくその動作をやっているだけで、全然締まりがないとか、企画段階から練りこみの足りないゲームではよくある話です。

次に、そこに当てはまるコンシューマゲームをそれとなく書き出していきます。うまいこと動作をゲームに落とし込めているものがあれば、それをボードゲーム化してみよう、てな風に考えたんですね。ちなみに、ツッコミどころなものとか、私が開発に携わったゲームタイトルをちゃっかりピックアップしていますが、ただの芸風なので全力で流してください。

ひっかける⇔はずす
→トップシークレット、フォーセット・アムール

かこむ⇔とく
→リブルラブル、Qix

つなぐ⇔きる
→ゴルビーのパイプライン、エレクトリシャン

むすぶ・しばる⇔ほどく
→SM調教師瞳

たらす⇔ひきあげる
→糸井重里のバス釣りNo.1

あむ
→アイアムアティーチャー手あみのきそ

ひっぱる
→ひっぱリンダ、ハチエモン、エレビッツ


上記の中では『トップシークレット』と『リブルラブル』が私の青春だったんですね。授業をさぼってゲーセンで『トップシークレット』三昧! よかったなぁ、というわけで、まずは『トップシークレット』をボードゲーム化できないか、考えてみました。
『トップシークレット』はワイヤーアクション初期の大傑作でして、ワイヤーでぶらさがったりぶらぶらしたりするのがとにかく楽しかったんですよ。見た目にもとても新しかった。

でもねー、ボードゲームの形におきかえてみると、どれもしっくりこないんです。『トップシークレット』は一人プレイのアクションゲームなので、真面目にコンセプトどおりにつくろうとすると、「ゴールに到達する」内容にならざるを得ないんです。でも、それを複数で対戦できるようにすると、原作にない要素がどうしてもはいってくる。その要素はその要素で「ひもキャッチ」みたいなアイデアとして使えるなぁと思いましたが。

とにかく、ワイヤーやひもの挙動そのものの楽しさをプログラミングしているゲームは、リアルタイムに動くプログラムだからこそ楽しい、と思えてきたんですね。これはちょっと手ごわいし、今のところはボードゲーム化する突破口が見つからない。だったら、ゲームの要素をひもで置き換えたほうがいけるんじゃね? ……と考えはじめました。それに、もともと対戦要素のあるゲームを元ネタにすればいいんじゃないか……。

その時、頭の中で\ピカーン!/と『ロマサガ2』ばりにひらめいたタイトルがありました。『ボンバーマン』です、学生時代はほぼ毎週、PCエンジンの爆弾男を友人達と朝まで対戦していたんですね。そうだ、この”爆風”をひもで見立てればいいじゃないか! こちらのほうが広がるぞ! (続く)
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「髑髏と薔薇」を21人でやってみた!


思いついてもなかなかやらない、そんな遊びが大好きなんです。変わった遊びかたをいろいろと考えていく中で、以前にとあるボードゲームイベントで行った「27人ニムト」がめっちゃ面白かったんですね。そこで、今回は20人「髑髏と薔薇」をやろうと決めたのです。

■薔薇と髑髏とは■


ここで「薔薇と髑髏」を知らない人に説明しておきますね。知っているかた、基本ルールはいいから面白いとこだけ読みたいというかたは本文へどうぞ。
「薔薇と髑髏」は暴走族の抗争をテーマにしたゲームです。まず、参加プレイヤーにカードが4枚配られます。内訳は薔薇が3枚、髑髏が1枚。参加プレイヤーは配られたカードの中から、カードを裏にして出します。親番となったプレイヤーは、裏側にして出されているカードの中に、薔薇のカードが何枚混ざっているか、宣言しますす。たとえば裏返しのカードが5枚あり、その中に薔薇のカードが3枚あるなと思ったら、「3枚」と言うわけです。もし、他のプレイヤーが全員パスをしたら、見せ場の始まり。裏返しになっているカードを1枚ずつ表にしていき、3枚の薔薇をめくることができれば、勝利に向かって一歩前進! ここで再び全員がカードを裏にして出します。もう一度、あなたが薔薇の枚数を宣言し、その枚数を見事にめくることができれば、勝利するというわけです。

でも、このゲームの面白さは「髑髏」カードにあります。裏返しに出されたカードに髑髏がまざっていて、もし、それをめくってしまったとしたら、あなたの見せ場はそこで終了なんです。手持ちのカードを1枚捨てられ、手持ちのカードが少ない状態でゲームを再開しなければなりません。ルールでは、裏返しのカードをめくるとき、自分のカードからめくらないといけないことになっています。ですから、自分の宣言の後に全員がパスした場合、自分が髑髏を裏返しに出していたとしたら、自ら髑髏をめくらなければならないわけです。このくやしさがいいんです。髑髏をめくらせて勝つ! 髑髏をめくって悔しがる! え? 薔薇をめくるゲームじゃないかって? 細かいことはいいんです! 髑髏をめくらせてカードを1枚ずつ減らし、全員のカードをなくさせれば勝ちなんです! そのほうが抗争と呼ぶにふさわしいでしょう。

■まずは脱退から始まった


さて、まずは17人プレイからスタートしました。これだけカードが出されていれば薔薇のカードをめくるのは簡単! とばかりに、10枚、11枚など、高い数値の宣言がどんどん飛び出します。でもそうは問屋がおろさない。もしも場に10枚が出されていたとしても、薔薇10枚をめくる前に、たいてい髑髏をめくってしまうのです。しかも我々全ファミメンバーは、無類の髑髏好き。主催の私なんて、自分の手持ちは髑髏8枚と常々宣言してますからね。宣言したとおりに薔薇をめくりきるのは容易ではなく、みなさん、次々と手持ちのカードを減らしていきます。

そんな中で、一人のプレイヤーが宣言したどおりの枚数をめくり切ることに成功しました。6枚か7枚だったかな? 参加プレイヤーが多人数髑薔薇の塩梅をつかむ前に、するっと抜け出したのです。その後、4人のプレイヤーが参加し、21人での対戦となりました。相変わらず11枚、12枚など、族らしい無鉄砲な数字が宣言されていきますが、もちろんめくり切れずに轟沈するプレイヤーが続出します。その様子をみたプレイヤーの一人が「1回めくり切れば勝利でいいんじゃない?」と言い始めますが、族のリーダーたる私が「もう一回勝ってる人がいるからダメ」と言って、それを認めません。族はヘッドのいうことが絶対!

すると、先の見えない族での毎日に不安をおぼえたプレイヤーが、無鉄砲なことを言い始めました。「誰かが枚数を宣言したら、それの1枚上を必ずコールする」宣言です。族のリーダーは完全決着を望むのに、完全決着がいつになるかわからない勝負に嫌気がさしたのでしょう。つーか、「早々に抜けて違うゲームをやりたい」という意思表示ですね。こうして、自爆覚悟の高い枚数コールが続出します。走り屋集団「全不破魅」リーダーたる私は思います。「みんなそんなに族をぬけてーのかよ! これでライバルが減って勝利しやすくなったぜ! 自爆? どんどんしてくれや!」 

薔薇をめくり切って勝とうなんて、そんな勝ちかたは私の中にはありません。20人を脱落させて一人だけ生き残ってたほうが、どうみても族っぽいじゃないですか。ブラックエンペラー総長ラブじゃないですか。というわけで、薔薇を出すつもりなど一切なく、ひたすら他プレイヤーを脱落させることに心血を注ぎました。私の髑髏をめくって手持ちのカードが0になったプレイヤーも出てきて、それはもうテンションが高まりましたとも! 

13人からが本番


このゲームのポイントは、手持ちのカードから髑髏がなくなった時、なんですね。つまり、その人のカードは必ず薔薇なので、安心してめくることができる。こうなると、そのプレイヤーは著しく不利になります。族は手の内を見せないのが強みなんですよ。で、その不利になったプレイヤーが何を目指すかといえば、「めくられる前にめくっちまえ」、すなわちめくり勝ちです。開始してから45分を過ぎるあたりから、手札が1枚しかなく、それが薔薇であることがばれているプレイヤーが何人も出始めました。彼らはこの苦しい戦いに終止符をうつべく、果敢に宣言していきます。そして当然髑髏をめくり! 族からの卒業! こうして、薔薇だけを持つプレイヤーが全員いなくなり、残るは歴戦の勇者13人となったのです。

生き残ったメンバーは、「人数が減ってからが勝負」と長期戦になることを見越していたものばかり。手札もたっぷり残しており、精神的にもタフです。すると、生き残ったメンバーの中で、共通のコンセンサスが生まれます。「薔薇の枚数は6枚が限界だろう」、と。6枚までは安心してめくれるのです。つまり、少なくとも6人はまっとうにめくりきって勝とうとしているように思えるんですね。ただ、7枚目、8枚目となると、もうこれはアカン。これは髑髏だなという、真っ黒いオーラが漂ってくるのです。これは容易にはめくれない。もし、7枚、8枚と宣言してしまった、あるいは勢いでさせられてしまったとしたら、手持ちのカードがなくなるのは確定となっていたのです。

こうした中でも、7枚、8枚を宣言するつわものが現れます。さすがは精鋭、ちゃんと6枚まではめくるんです。しかし、どうしてもあと1枚がめくれない。例の真っ黒いオーラがカードから漂ってきます。そしてドボン! なんて恐ろしい子! こうしてどんどん人数が減っていき、気が付くと、9名にまで減っていました。おそろしい内部抗争により人数が減っていく、モノホンの族のようでしたな。

全不破魅リーダーの見せ場、そして意地


こうした中、私に最大の見せ場がやってきます。私も序盤に遊びで2枚ほどカードを捨てていました。ほら、族のみなさんってサツのお世話になった回数自慢とかしてそうじゃないですか、あれですあれ。減ったんじゃない、自分から捨てたんだ、と虚栄を張るわけです。
んで、私は例によって髑髏を出していたのですが(ゲームを通じて、薔薇を出したのは2回しかありませんでした)、親版プレイヤーが、カードを重ねおきしたのです。親番のプレイヤーは、薔薇の枚数を宣言するか、もう一枚、裏にしてカードを重ねてもいいんですね。この21人髑薔薇では、カードを乗せることがほとんどなかったのです(もともと乗せル事の少ない人達の集まりなんですが)。そして、親番の次のプレイヤーも、その次のプレイヤーも重ねおきをするわけですよ。そして私の番。ここで、私もカードを乗せることはできました。ただ、宣言のとおったプレイヤーが、私のカードを安全だと思ってめくる。それがどうしてもイヤだったんですよ。だってリーダーじゃないですか。弱いとこ見せられないじゃないですか! 

そこで、私は「1」と宣言しました。ところが、というか、私の性格をよくわかっているというか、他のプレイヤーは全員「パス」を宣言するじゃないですか。そして、私が1枚をめくることになったわけです。つーかあんたらわかりすぎ! 9人も参加者いるのに1枚でいいんかい! と笑いが1分間ほど止まりませんでした。しかたなく、いや、いさぎよく、自分のカードをめくり、髑髏を見せます。で、髑髏をめくってしまったので、カードを1枚捨てるわけです。ここで薔薇を残せば、まだ勝負することはできるんですよ。でも、そんなのは私らしくないので、みなには見せないように、かっこよく薔薇を捨てました。

ゲームは進みます。絶妙な枚数の宣言を行い、それを通したプレイヤーが、私のカードを「確認したいなー」といってめくりにきました。私は「(リーダーを)なめんな!」と叫びましたね。「おみそれしました」と彼は言いましたが、もちろんここで、私のゲームは終了しました。最後の薔薇を捨てた時点で終わってたんですけどね、うはは。ただ、勝利の可能性がなくなったとしても、自分らしさを通して、このゲームの行く末を見届けようと思ったのでした。

こうして、勝負は終盤戦に突入しました。残りプレイヤーは8人。しかし、私を含め、髑髏しか持っていない人が2名なので、実質6人での戦いになりました。こうなると、ごくごく普通の「髑髏と薔薇」です。そして、ブラフゲームに長けたプレイヤーが見事に勝利したのです。
ただ、そこに至るまでの過程における、笑いとドラマと驚きとどよめきが、普通のプレイより、ずっとずっと多かったなぁと。27人ニムト、21人髑髏と薔薇とやってきたので、次は20人ノイとかやってみたいですね! 

日本人の能力はすばらしい。この能力をいかしたボードゲームは作れないか。

日本人は実はすばらしい才能の持ち主で、誰かの話す言葉を聴いた時、頭の中でそれをいったん漢字におきかえてから意味を把握しているんですね。たとえば「こうえんのでんとうのしたにわすれものをした」と聴いた時、「公園の電燈(電灯)の下に忘れ物をした」と理解することができる、と。

「公演の伝統の下に忘れ物をした」とはならないんです。「こうえん」「でんとう」という同音異義語があっても、文脈から瞬時に理解しているわけですね。海外の人が日本語を勉強し始めたとき、もっとも高い壁になるのが漢字。みなさんは複雑なことを楽々と行っており、もっと誇らしげにしていいです。

ちなみに同音異義語が増えたのは理由があります。明治時代、主にヨーロッパや北米から文化やらモノやら本やらが大量に日本へ流入したとき、日本人がもっとも大好きな福沢諭吉センセーが片っ端から訳語を作りまくった。「銀行」「電灯」「電車」とかですね。

諭吉センセーは、漢字から元の単語の意味を取れるようにがんばって訳語を作ってくれたのですが、「読み」の部分については無頓着でした。なので、「こうえん」だの「でんとう」だの、同音の言葉が大量に作られてしまったのです。

英語なら「聞いて覚えろ」と石川遼選手も薦めてくれるのですが、日本語が聞いて覚えられないのは、日本人が大好きな諭吉センセーのおかげでもあったりするわけです。日本に進出しようとする海外の人は、もっと福沢諭吉センセーを嫌っていいと思います。日本人が喜びます。

で、この「話し言葉の文脈から瞬時に漢字を連想する」日本人の能力をいかすゲームを考えたのですよ。出題者がひらがなで文章を書く。回答者はそれを漢字に置き換え、もっとも面白い文章に仕立てた人に勝利ポイント。ひらがなの文字数が少ない時点で答えれば答えるほど高得点になるシステムになっており、ファミコンの『ゲームギミア・ぶれいく 史上最強のクイズ王決定』をリスペクトした内容になっております。

あー、あらかじめ未来リプライをしておきますが、そこのたほいや関係者! たほいやでいいじゃんとかいわないように!

まあオチが弱いんですけど、きっと何かどこかにつながることがある日がくるといいですね。なお、漢字関連の元ネタは高島俊男「漢字と日本人」です。海外の人向けに書かれていた文章が元の本なので、とても読みやすく面白いです。超おすすめ。

ボードゲームの遊びかたもひとつじゃない!

そういえば「ペンギンパーティ」も全ファミオリジナルルールでやったら面白かったなー。「次の人を置けなくしたらチップもらう」「1色をつぶしたらチップもらう」とか、邪魔した者が正義だ! ルール。てわけで、ちょっとルール改変について考えてみました。

「6ニムト」を27人対戦したり(1人3枚ずつ)とか、「シークレットガーデン」人間8人対戦のときにうそつき兵士を姫サイドにするとか、ルールを変えてよく遊んでます。「髑髏と薔薇」でめくり勝ちを一切狙わないのも、どちらかといえばルール改変に違いノリかな。いまだと「0(ゼロ」をコールするのも認めようか、みたいな話になってるくらいですし。

ファミコン時代からずっと実践してきてるんですけど、「ゲームの遊びかたはひとつじゃない」んですね。遊ぶ側が面白い、あるいは見ている側がこれは面白そう! と思った遊びかたなら、どういう遊びかたでもいいと思うんです(ゲームを痛めつけたりするのは論外ですが)。ボードゲーム研究家の草葉先生んとこで遊べる「8人麻雀」とか最高じゃないですか。

たとえばこれ。『スーパーマリオ』で対戦動画。


「6ニムト」で牛をたくさん集めた人が優勝でもいいですし、「パンデミック」でどれだけ早い時間で感染を限界まで広げられるかでもいい。二人用ゲームを四人用に拡張するのもいいし、「ノイ」で100までルールとか熱いですよ。大量にある切り札の”101”カードがすべて死に札になりますからね。

かつて、中を一切見せないパッケージになっていて、買って中身をみてみたら100円トランプだったという、ある意味で熱い同人ボードゲームがありました。要するにトランプのルールを売ってるわけじゃないですか。逆に堂々と「ルールを売ります」という売り方にすれば面白かったと思うんですね。

ただ、トランプの遊びかたやそれらの本はたくさんあるので、新ルール+トランプで500円は高いと思いましたが! でもま、変形ルール集ならいかにも同人らしくていいじゃないですか。そのルールが公式に採用されて、続編や拡張や再販で採用されるとか、夢があっていいと思います。ゲームの新しい遊びかた本、どなたか書いてくださいまし!

ボードゲーム制作は、テーマが先かルールが先か

自分のツイッターの中で「閉じ込めゲーム」なんてのを考えてました。もともとは、脱出ゲームとかリアル脱出ゲームとかが流行っている今なら、逆の閉じ込めゲームもいけるんじゃないか。これで俺もモテゲーが作れるぞヤッタね! 今に見ていろSCRAPみたいな。
で、いろいろと考えていく中で、やはり閉じ込めの最たるものは刑務所だろう。よって、前科100犯くらいの終身刑を受けた凶悪犯罪者ばっかりが入ってる刑務所の看守になって、彼らの暴動および脱走をおさえるゲームならいけるんじゃないか、みたいになったとするじゃないですか。じゃあ、これをゲーム化しようと思ったら、まずシステムを考えてみようかと。部分的なアイデアがひらめいて、それを組み込んでいくということもあるかもしれない。パロディキャラは「ショーシャンク」かはたまた「グリーン・マイル」か、「コン・エアー」もええな、拡張で使えるなぁ……なんてニヤニヤしたりとか。

ところが、ゲームを作っていくうちに、だんだん刑務所の看守なり囚人へのメシなりなんなり、現実に即した設定が邪魔になってきたとするじゃないですか。でも、囚人を閉じ込めてるのは看守だしなぁ……とか、それをゲームにすりあわせて落とし込んでみる。そして、一応はゲームが完成する。
そういうのを遊んでみると、おそらく、テーマにそっているのに、なんとなくぼんやりしているゲームになっているように思うんですね。そして、そういうぼんやりしたゲームが、最近、とみに多いんです。

多くのかたは、おそらく、私と同じように、まずテーマがあって、それをゲーム化していると思うんですね。それが悪いとかではまったくありません。ただ、自分がひらめいたアイデアはけっこう面白く感じてしまうので、最後まで残してしまいがちだと思うんですよ。それをスパッと切り捨てるのはやっぱり難しいし、切り捨てたらテーマがどっかに行ってしまったりする。
だったら、私はテーマからつくらなければいいんじゃないか、と思った次第。なんか面白そうなルールなり仕組みを考えて、最後にテーマを乗っければいいんじゃないかな、と。その乗っけたテーマがぜんぜん魅力的でない可能性もあるので、問屋は簡単に卸してくれないと思いますけど。

思うに、テーマから作るのであれば、同時に100個くらいのテーマを考えておいて、その中からベスト1! というものを作るのがいいんでしょうねぇ。

関連エントリ:
もやもやするボードゲームに思うこと
いまいちな同人ボードゲームの「自手番のアクションの手ごたえがない3つの理由」


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新大塚駅そばで「全ファミ協会」というよろずゲーム会をやってます。次回は5月19日で、テーマは「ブラフ系ゲームメインの日」です。日程や場所の詳細はこちら

いまいちな同人ボードゲームの「自手番のアクションに手ごたえがない」3つの理由。

いまいちピンとこない同人ボードゲームの「自手番でのアクションに手ごたえがない」件について、思いのほか反応がありました。手ごたえのなさを感じるパターンはいくつかあるので、もう少しツッコんでみることにします。自分の発言にも手ごたえなかったなぁ、などとセルフツッコミしつつ。

ひとつめ。「自手番でのアクションに悩みどころがない」。あちらを立てればこちらが立たず。ここで勝負すれば勝てるけれども、あとあとの反撃が怖い。一歩行けば脱落するかもしれないが、一攫千金が待っているかもしれない。ああ、かくもボードゲームは悩ましい! ……てな具合。

若きウェルテルばりに悩ませてほしいわけですよ。つまりはジレンマですね。手番でのアクションひとつひとつに対して、もっと後悔したいんです。悩んで出した答えが間違いで、悔しいからもう一丁! と再戦を申し込みたいんです。後悔ばかりの人生だけど、後悔は先にできないんだから仕方ないんです!

ネタはともかく、手番でのアクションに相反する要素があって、どっちにするかシンプルかつストレートに悩めたら、ものすごく興奮するはず。個人的な感覚ですが、ジレンマのないアクションが全手番中の3割を超えていたら、ゲームとしてはうーん……という感じになってしまいますね。

ふたつめ。「自手番で行ったアクションが、他プレイヤーや勝利条件に影響を与えない」。たとえば、他人からもらったカードがうれしくない。奪われて悔しくない。他人から何かされて痛くもかゆくもない。これは多分、「制作者が、勝利や敗北の定義づけをちゃんとできていない」からだと思うんです。

「この手番で勝つことにはこのような意味があります。相手を邪魔するのはこれこれこのような理由と楽しさがあり、だからこのような戦略が必要で、それを構築していくのがゲームのポイントです」。そういう楽しみかたや勝ちかたが制作者はわかっていて、その上で、それをプレイヤーに明示できているか。

少しテーマからずれますね。プレイマニュアルには、カードの意味とゲームの流れが書いてあります。でも、じゃあ実際なにをしたらいいの? と戸惑うゲームがあるわけです。それを解決するのは、現状は「すでにプレイ済みの人の、ゲームの考えかたを含めたインスト」になりがちだと思うんですね。

でも、勝利条件やルールが複雑で、結果的に楽しさが伝わりにくいゲームというものもありますよね。だとしたら、ゲームマニュアルに、「カードの使い道」「アクションの意味」「ゲームのコツ」を明確に書いてみてもいいんじゃないかなーと思ったりもします。

勝利や敗北の定義づけの話に戻すと、そういう明確な定義なり戦略なり笑いどころがあるからこそ、自分のアクションに手ごたえを感じるわけです。それがないと、頭の中に「?」マークを浮かべたまま遊び続けたり、多人数プレイなのに置き去り感を覚えちゃったりすることになりがちですよね。

みっつめ。「ゲームルールに対して、用意されているアクションやカードなどの定義づけが弱い」。前にも少しふれましたが、取捨選択されていないカードやルールを用意していませんか、と。戦略的なパスはできますか。カードに要素をつけるあまり、勝利条件がぼやけていませんか。

本来であれば一手番ごとに有利不利が入れ替わる楽しいゲームなのに、有効なアクションなりカードなりが用意されていないがために、入れ替わりが発生せず、結果的にぼやけてしまう。そんなもったいないゲームがあるんじゃないかなぁと思うのです。

ルール、カード、勝利条件。それらを生かす最高の答えがあるはずなんです。制作者のみなさん、アイデア出しやテストプレイでかっちり手ごたえを感じてください。それは絶対に、プレイヤーの手ごたえにもなるはずですよ!

もやもやするボードゲームに思うこと

同人のボードゲームをやっていると、ファミコンの無色無臭なアクションゲームをやっているような気分になることがあります。練りこみが足りないなぁとか、余計なものが駆け引きの邪魔をしているなー、とか。この気分がどこからくるのか考えてみました。

まず考えたのは、「基にしているゲームがある場合、それとの差別化をするためのデコレーションが多すぎなのではないか?」ということ。元の形そのまんまで出すのはNGだから、装飾はもちろん必須。なんだけれども、装飾が多すぎて元のゲーム性がなくなったり、ぼやけちゃったりしていないか、と。
元のゲームはだいたいがプロが作ったものだったり、ズバ抜けて面白かったりしたものだと思うんですね。それらがつくられる過程で削られたり不採用になったものを、再び装飾という形で足しこんでしまったんじゃないかなぁ……なんて風に思うのですね。
シンプルなゲームに装飾をつけるのはものすごく困難だと思うんです。もしつけるにしても、100個くらい装飾のネタを考えて、つけては削りつけては削り、最終的に1個か2個くらいの装飾だけが残るくらいでいいんじゃないでしょうか。それくらいの厳選素材なら、絶対に面白いと思うんですよね。

一方、練りこみ不足と感じるのはどういう時かといえば、ゲームのシステムやルールやカード内容よりも、自分の手番で何かをしたとき(何もしないパスでさえも)、それが自分にとってどのような意味を持つのか、よくわからないときなんです。
自分がなにかしたとき、成功であれ失敗であれ、何かの手ごたえがほしいじゃないですか。手ごたえってのは、これで勝つる! とか、これで次のプレイヤーは昇天だぜ! みたいな感覚ですね。これなら次の手番までに復活できる! とかでもいいんですけど、それがあんまり感じられないものがあるんです。
ただ、漫然と、流れるままに、自分の手番を過ごして次の人どうぞ、みたいな。自分の手番が少ないゲームであっても、手ごたえを覚えないゲームがあったりもします。だから、手ごたえは手番の多寡ではなくて、プレイヤーがやる行動一つ一つに、重みづけができていないかと考えたんです。
前に書いた装飾の話にも少し関連しています。たとえばカードやルールの装飾は盛りだくさん。そこの取捨選択をプレイヤーに投げてしまったために、投げられたプレイヤーはクリティカルな一撃を放てた気分にならない、みたいな。

よくできたゲームをやると、自分の手番で「これだ!」という手ごたえを感じるじゃないですか。そういう手ごたえをメモったり記憶したりしておいて、自分の作っているゲームの手番で、そういう手ごたえが感じられてるかな? なんて客観的に見たりしたら、重みが増してくるかもしれないですね。

※上記は私のツイートを再構成したものです。上記を踏まえて、以下のエントリを書いています。

いまいちな同人ボードゲームの「自手番のアクションに手ごたえがない」3つの理由。

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